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華々しいデビューと失恋 「葬送行進曲」

孤独な心を抱えながら、ショパンは1831年9月にパリに到着しました。当時のパリは、フランス革命、そしてナポレオンの帝政と失脚を経験し、良くも悪くも市民の自由にあふれた街でした。そんな自由な気風に、パリには多くの文化人が集まり、ショパンも到着早々、作曲家のケルビーニやロッシーニと会見しました。

パリは、ウィーンよりもポーランドに対して好意的でした。

ショパンは22歳の誕生日をむかえる直前の2月にパリで最初の演奏会を開きました。この演奏会は大成功で、メンデルスゾーンはショパンの演奏に熱狂し、リストは「どんな拍手を送っても足りない」と大絶賛したといいます。演奏と才能が認められ、上流階級との繋がりも得たショパンは、社交界の夫人や令嬢などにピアノを教えたり、自作を捧呈したりして、経済的にも安定しました。そして、メンデルスゾーンやリスト、ベルリオーズといった同世代の音楽家たちとの友人関係にも恵まれた、幸せな時代を過ごすことになります。

病気療養のためにドイツの温泉地カルルスバートへ来ていた両親を見舞った帰り、ショパンは幼馴染のヴォジニスキ伯爵の令嬢マリア・ヴォジニスカと再会し、恋に落ちました。ショパンが結婚まで意識した恋愛はこの一度きりと言われています。しかし、2人の婚約は破棄され、この恋は実りませんでした。27歳のショパンがこの失恋にどれほど心を痛めたかということは、後にピアノソナタ第2番の第3楽章におさめられることになる「葬送行進曲(そうそうこうしんきょく)」がこの頃に作曲されたことにあらわれているといえるのではないでしょうか。


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